ソクラテスは前5世紀頃*1に活躍したギリシアの哲学者である。彼には著作がなく、そのため彼の探究したもの、及びその方法を知るためには、弟子のプラトンの著作に拠るより他ない。従って本稿では、1ソクラテスの人物像を概観した後、2プラトンの著述『ゴルギアス』篇からソクラテス的論駁の実例を挙げ、3その問題点を析出すべく努めたい。
1 ソクラテスは、権威への服従と習慣への遵守という社会的強制の道徳(ドクサ)に囚われて、魂にではなく身体的なもの*2に真の自己を隷属させる人々の姿勢を批判した。そして、より善く生きるためには、善と悪を知り分け、真に善いものを内観できる卓越した魂(徳:アレテー)を自己の内に体得して道徳について自律的となり、以て自分自身の人生を自己の統御の下に置かなければならないと説く。そして、人間の自由*3と理性の自律という至高の精神的問題の決定に際し、自身の理性と神の命ずるところに従って国法への服従を拒み、死をも甘受した人であった。即ち、彼は、信じるところに従いより善く行動する「知行の合一」を目指し、自ら死をもってその真実を証した人であった。
2 彼は、より善く生きるための卓越した徳性を同胞に体得させることを使命として、その本質を問い糾したが、その際、彼は教え諭すのではなく、質問を発し、その答えが含む矛盾を指摘することによって相手を物事の正しい概念に到達させようとした。これを問答法というが、その内、事柄を「吟味」する過程で、相手が正しいと信じ込んでいる信念体系を切り崩して「論駁」し、相手に自ら無知の知を悟る契機を提供するのがソクラテス的論駁*4と呼ばれる技法である。概して言えば、相手から命題pが提出されるとき、それを直接検討するのではなく、関連する別の命題qやrについて相手の同意を得ながら検討課題p’を構成し、過程で積み重ねられた同意を基礎にして相手と共にpと反する命題notpを導出することで、相手方の主張は論駁されたとする対話の仕方である。もっとも、これは相手を罠にかけて言い負かすための単なる「建前崩し」の技法ではない。自分の理解が如何に不十分であるかを悟らせ、相手が彼と共に真実を探求する気になるようその意志に働きかけることにこそ、その真の目的があるのだということに留意しなければならない。ではここで、ソクラテス的論駁の実例としてプラトンの著作『ゴルギアス』篇に収められたソクラテス(以下、彼)とポロスの対話について検討したい。そこでは、命題p「最大の不正を行っていながら、何の裁きも受けていないことは幸福である」がポロスから提出される。これに対し、彼はq「身体或いは魂に悪い処をもつ二人の内で、治療を受けてその悪から解放される人と、治療を受けずにその悪を内包し続ける人とでは治療を受けない人の方がより悪く、不幸な生活を送ることになるから、一番幸福なのは魂の中に悪を持たない人で、二番目に幸福なのは、その悪から解放される人である」ということ、及びr「善いことはそれをされる人にとって快いか有益かその両方であり、悪いことはそれをされる人にとって苦痛か有害かその両方である」ことを相手に同意させる。その上で、経験的事実として「治療を受けることは快いことではなく、加療される者は苦痛を伴う」ことを指摘しながら、「不正を行う者で、苦痛を伴う治療(=裁き)を受けない者は幸福であるか」を検討課題p’として構成して共に吟味を進める。そしてrより、「①治療は苦痛を伴うという点で、悪を被ると言えるかもしれない」が、qより「②心の中に悪があるのが一番悪く、悪を心の中からとり除かないのは二番目に悪いのだから、これらと比較すれば、治療を受けることは悪ではなくむしろ幸福である」ということを導出する。①、②から、「不正を行う者の内、苦痛を伴う治療を受けて悪を除かれるものは幸福である」即ち「最大の不正を行っていながら、何の裁きも受けていないことは幸福ではない:notp」という帰結が得られ、よって最初の命題pは論駁されたということになるのである。
3 さて、かかるやりとりの問題点は奈辺にあるのか。これについては、pとnotpに矛盾がある時、ソクラテスの方が正しいと言える根拠がない、pを直接検討せずに関連するqやrから導出されたnotpが常に真だと言える必然性がない、必ずしも物事の本性を知らなければ正しい価値評価ができないわけではない等の点が指摘されるが、他に「評価すべき価値概念の転換が在る」という事柄も一つの問題点として指摘し得るのではないか。先の例でいえば、命題に含まれる「幸福」という価値語の意味概念に遷移が見られる。即ちpの「幸福」は「苦痛を免れ得ること」の意であるが、notpでは「心の中の悪から解放されること」の意であり、事柄の内容が全く別異である。元来、検討評価すべき概念の定義を確定しなければ、議論は成立しない。しかしソクラテス的論駁においては、価値語の概念を相手の受容し易いように漸次的に変容させながら同意を重ね、同時に当該概念がソクラテスの善しとする価値に適合的に連結するよう、巧みな転換がなされている*5。勿論、導出されたnotpの趣旨、及び導出過程の論理自体は至当と評して大過ないと考えるが、故に、notpが常に真でpが常に偽であるという論理的・客観的必然性まで認めることができるとは言えない。なぜなら、仮に転換を許さず、幸福の意味を「苦痛を免れ得ること」と解する限り、ソクラテスの主張を最大限に斟酌してもなお、「何の裁きも受けないことは最善と次善の幸福ではないが、第三番目の幸福ではある*6」と言えてしまうからである。要するに、ソクラテス的論駁とは、相手の同意を得ながら価値語の意味概念を漸次的に遷移しつつ、彼が善しとするところに適合的に誘導・転換し、そこから得られた帰結を梃に相手の信念体系を動揺させるものであった。しかしそれ故に、価値語の意味概念の転換に成功する限り、必ず相手を論駁することができる強力な対話の術でもある。彼は、相手に無知の自覚を促し、彼と共により高次の価値を探求するよう仕向けるためにこれを用いたが、もし、彼の言う魂の卓越のためにではなく、ただ単に相手を論駁するための技術としてこれを用いるのであれば、それはより善くあるべきはずものを覆滅し―例えば「対話による平和維持は自衛のための先制武力行使よりもより善い」のような、未曾有の犠牲の末に人類が到達した失うべきでない現代的価値さえも論駁し*7―得られたかもしれない相手方との理解・供応・発見の機会をも排斥する凶器に堕すということである。従って「より善く生きるためにすべきことは何であるか」という彼の視点を欠いて用いてはならないのであり、この点をソクラテス的論駁に関し析出される問題点の一つと観念する。以上。
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*1.前470~399
*2.名誉、財産、肉体など
*3.快楽やみかけの幸福という真の自己から見れば幻でしかないようなものに対する欲求を斥けて、真の善を希求する魂の求めに従って、自己の欲求を自ら意志で思う儘に統御できるという意味での自由
*4.エレンコスと呼ばれ「吟味」とも訳される
*5.なお、ソクラテスの真の関心は「概念の本性」の探求にあるから概念の遷移・転換自体は否定されることでない。「何某が優れた市民であるか否か」という問いを「優れた市民とは、どういうことをするものなのか」という根本的問いに切り替え、人間相互の経験に訴えて帰納的に同意を獲得することに彼の関心の核心はあった。
*6.なぜなら、少なくとも苦痛の回避には成功するから。
*7.p「対話による平和維持は自衛のための先制武力行使よりもより善い」q「対話の方が先制よりも実効的確実性に劣る」r「優れるものは快いか、有用か、その両方で安心に帰結し、劣るものは苦痛か、有害か、その両方で不安に帰結する。国家の使命は国民を確実に衛ることだから、すべきはより優れた手段を選択することで、すべきでないのはより劣る手段を選択することである」然るに検討課題p’「国家の選択として、対話と先制はどちらがより善いのか」。①対話する人は先制する人より大きな苦痛を感じるとは言えない。しかし、②対話が必ず成功する保証はないから確実性に乏しく、むしろ不安である。ここで、rより不安に帰結するものはより劣るものであり、またqは同意事項だから、故に「国家の選択として対話より先制の方がより優れる(先制より対話の方がより劣る)」というべきである。よって、pは論駁された。ここでも、価値語「善い」について、p「人類の安寧的生存維持の点で善い」をnotp「国家の安全保障上善い」に転換して結論が導出されている。
2018.02.02
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